Yorimichi AIRDOをご覧の皆さまはじめまして。フリーライターの井口エリと申します。
道外に住む自分にとって、函館は、港町で、夜景が綺麗で、魚もおいしくて……という漠然としたイメージの街。
ですが、今回編集部からもらったテーマは「函館の歴史」。100万ドルの夜景も、イカも登場しません! 縄文時代から現代までの函館の歴史を、ただひたすらたどっていく旅です。
……一言言わせて。ニッチすぎない!?
日本史の教科書を読み返すと、函館が歴史の表舞台に登場してくるのは、1859年の箱館開港。だからこそ函館、そして北海道自体に“新しい都市”というイメージを持っていたのですが……。
今回、市内の4つの施設、史跡をめぐるタイムトラベルに出かけてきました。見えてきたのは、“函館人”たちが紡いできた、奥深く、壮大な人間ドラマ。
歴史好きも、そうでない人も、読めばきっと函館のポテンシャルを感じていただけるはず。あなたの知らない函館へ、さぁ旅立ちましょう。
※この記事は、函館市によるスポンサードコンテンツです
※インタビュー取材はオンラインで実施しました
病院の診察券を持った土偶がいる「函館市縄文文化交流センター」
まずは縄文時代の函館をのぞいてみましょう! え、ちょっと待って。「縄文時代」と「函館」って何の関係が? ますます分からない……。何も……。そんな人にオススメなのが「函館市縄文文化交流センター」(以下、センター)です。
センターは、函館空港から車で40分ほどの南茅部地区にあり、同地区の縄文遺跡で発掘された出土品や、道内唯一の国宝「中空土偶」を展示しています。
そんなセンターや縄文時代の函館について、事業課長の坪井睦美さんに詳しくお話を伺いました。
――そもそもの質問なのですが……函館の縄文時代って本州の縄文時代と何かしら関わりがあるのですか?
坪井さん:今でも「お国柄」といって生活様式や食文化に特徴があるように、縄文文化も土器の紋様や形から、日本全体で6つほどの文化圏があったことが分かっています。でも、函館を含む南北海道と津軽海峡を挟んだ北東北は同じ文化圏だったんですよ。
――えっ。当時、東北と北海道は地続きだったというわけではないんですよね? 一体なぜ……。
坪井さん:地域間で交流が盛んだったようです。(青森県の)大間町と(函館市の)戸井町は、直線距離で19キロしか離れていないのですが、縄文人たちは潮の満ち引きをきちんと理解し、丸木舟で渡っていただろうと考えられています。
十数年前、縄文人と同じ木造の舟で津軽海峡を渡ったイベントもありました。ただ、潮の流れが早く、本州へたどり着くまですごく大変だったと聞いております。縄文人の航海技術は優れていたんでしょうね。
――こちらに展示されている、国宝の中空土偶とはどのような土偶なのでしょうか?
坪井さん:土偶は製作方法によって大きく「中実土偶」(中が詰まっている)と「中空土偶」(中が空洞)に分けられます。
センターに展示されている中空土偶の表面には、幾何学模様が描かれています。中を空洞にした上で、ここまで精緻な模様をつけていくのは、大変な作業だと思います。
この中空土偶は「南茅部の土偶」という意味で、「茅空(カックウ)」の愛称で親しまれています。
――茅空! 愛称を知ると親近感が増しますね。
坪井さん:余談ですが、茅空が国宝に指定された時、中の構造や素材を調べるため、市立函館病院でCTスキャンを受けさせました。当初、病院側には「人間を診察する機械なので目的外使用です」と言われたのですが、この土偶にはカックウという名前があって、女性なんです(※土偶はたいてい女性を表している)と丁寧にお伝えしたら、「ではカックウの診察券を作りましょう」ということになりまして……。
――ええーっ!?
坪井さん:3500年前につくられた土偶なので、正確な年齢は3500歳なのですが、「さすがにそれは(システム上)作れない」とのことで、明治2年生まれという扱いになっています。
――病院の診察券を持つ土偶は国内唯一の可能性もありますね。ちなみに、診察券は展示されているのですか?
坪井さん:展示はしていません。必要に応じてポケットに忍ばせ、ときどき来館者の方にお見せしています。
――実際に館内で見たい……! そういえば、この中空土偶をモチーフとしたグッズも販売されていますよね? どれもかわいい。
坪井さん:公式マスコットキャラクター「どぐう館長」をあしらったグッズですね。私のおすすめは、フローティングボールペン(税込600円)。中空土偶を「空中土偶」と言い間違われる来館者の方が多く、それをヒントに作りました。
――なんというセンス! あとかわいい。
坪井さん:ペンを逆さまにすると、土器の中から中空土偶が出て、空中に浮かび、「空中土偶」になる仕掛けです。
あと、私も愛用している「ハコダテ歴史定規」(税込500円)。約1万5000年の函館の歴史を15センチに詰め込んだ定規で、テストの時には使用禁止じゃないかなと思うくらいヒントがいっぱいです。
――全部ほしい……。最後に、中空土偶以外の見所を教えていただけますでしょうか?
坪井さん:二つありまして、一つは、縄文時代早期(約9000年前)の墓から見つかった漆製品です。
私が発掘を担当したのですが、発掘当時、周りにすごく驚かれましたね。というのも、それまで漆製品は中国の河姆渡(かぼと)遺跡で出土した約7000年前のものが一番古く、漆文化が「中国から日本に伝わった」と考えられていたからです。だからこそ、この発掘は漆文化の発祥を考える上で、重要な出来事だったように思います。
あともう一つは、縄文時代早期のお墓から見つかった、子供の足形手形がついた粘土板です。小さいもので6センチ、大きいもので16センチくらいと、大きさに差があります。
発掘当時はお産の記念に作られたものだと考えられていましたが、お墓から見つかっていて、大きさがばらばらであることから、現在は「幼くして亡くなった子供をしのんで親が作ったもの」という説が有力です。親が亡くなった時、その粘土板も一緒に埋葬されたようです。
――親が子を想う気持ちは現代人と変わらないんですね。なんだか縄文人に親近感が湧いてきました。貴重なお話をありがとうございました!
***
センターには「道の駅 縄文ロマン 南かやべ」が併設されています。
全国的に見ると、博物館や美術館が併設された道の駅は珍しくありませんが、ここ「道の駅 縄文ロマン 南かやべ」は何と言っても「国宝のある道の駅」。
施設内では、縄文人の好物、くるみを使った「縄文くるみソフト」(税込330円、坪井さんも大好物!)が味わえます。クリームにくるみを練りこみ、上からくるみパウダーをトッピングした、くるみ尽くしの濃厚な一品です。
また、センターの近くには縄文時代の遺跡、大船遺跡もあります。隣接する垣ノ島遺跡と合わせて、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産として世界遺産登録への期待が高まっています(登録は早ければ来夏にも!)。
遺跡の中の小高い丘からは、眼下に海を見渡せます。そこから見える風景は、坪井さんいわく「縄文の人たちも眺めていたんだろうなぁという原風景」。
博物館で縄文を学び、道の駅で縄文を食べ、遺跡に立って縄文人と同じ風景を見る。ここに来れば、1日どっぷり縄文に浸れますよ〜!
【スポット情報】
- 函館市縄文文化交流センター
- 所在地
- 函館市臼尻町551-1
- 電話番号
- 0138-25-2030
- 開館時間
- 4月〜10月 9:00〜17:00
- 11月〜3月 9:00〜16:30
- 入館料
- 一般 300円(20人以上は240円)
- 学生・生徒・児童 150円(20人以上は120円)
- 未就学児 無料
- 休館日
- 毎週月曜(祝翌日)、最終金曜、年末年始
- URL
海を見ながら、和人とアイヌの歴史に思いを馳せる「志苔館跡」
北海道の縄文時代にすこーしだけ詳しくなったところで、時計の針を進めましょう。続いてやってきたのは、史跡志苔館跡!
2017年には続日本100名城にも認定されており、函館の中世を語るうえでは欠かせない。そんな志苔館を、函館市教育委員会文化財課の小林貢さんにご案内していただきました。
――志苔館はどんな建物で、これまでに何が分かっているのでしょうか?
小林さん:中世の北海道には本州の人々(和人)が道南に築いた館(たて)と呼ばれる拠点が12か所あり、これらを「道南十二館」といいます。室町時代に道南十二館を支配した武将・安東政季は、もともと津軽十三湊(青森県五所川原市)を拠点にしていました。しかし、勢力争いに敗れて道南へ渡り、各館に配下の武将を配置したと言われています。そんな十二館の中の一つが、この志苔館です。
――本州から来た人は、現地でどんな暮らしをしていたのでしょうか?
小林さん:アイヌの方々がすでに生活していたので、館を築き、自分たちが暮らす領域を確保していたのではないかと考えられています。
ただ1456年、アイヌと和人の間で戦い(コシャマインの戦い)が起こります。その後もアイヌと和人の戦いが繰り返され、1512年に志苔館は陥落してしまいました。
――……ということは、当時この志苔館は緊張状態にあったのですか?
小林さん:常に緊張状態にあったわけではなく、しばしば交易もしていたようです。「庭訓往来(ていきんおうらい)」という中世の書物などでは、アイヌとの交易をうかがわれる道南の昆布が、「宇賀の昆布」という名前で、遠く関西方面にも流通していたことが記されています。
――なるほど。両者が時に争いながら、ともに暮らしていた様子が伝わってきます。現在、志苔館跡は史跡公園となっていますが、当時をうかがえるものは残っていますか?
小林さん:発掘時に見つかった井戸の跡でしょうか。
あとは、四方向にめぐらされた土塁。こちらは、数百年前からそのままの状態で保存されています。
南側の土塁は、他の土塁よりも高さが低く、視界が非常に開けていて眺望もいいんです。天気のいい時なら、対岸の青森の海岸線をしっかり見届けることもできます。
写真撮影のために、遠方からいらっしゃる方も多いですね。
――あの海岸線の向こうから和人がやってきたのだと考えると、とても感慨深いですね。歴史の大きな流れを感じます。ありがとうございました!
***
現在は海を見渡せるのどかな景色が広がり、函館市民のウォーキングスポットとしても愛されている志苔館跡。
かつては経済活動の一大拠点だったと考えられています。函館観光の際に立ち寄って、アイヌと和人がともに暮らした中世の函館に思いを馳せてみてはいかがでしょう。
【スポット情報】
- 史跡志苔館跡
- 所在地
- 函館市志海苔町
箱館戦争の舞台へ。当時のままの兵糧庫が残る「箱館奉行所」
タイムトラベルもいよいよ終盤。歴史はまた大きく進み、幕末の函館(箱館)にたどり着きました。
こちらは、2010年に復元され、一般公開がはじまった「箱館奉行所」です。箱館奉行所は、幕末の箱館開港に伴い、江戸幕府の役所として1864年に建てられましたが、その後、箱館戦争の舞台ともなり、1871年、開拓使の札幌移転に伴って解体されました。現在は特別史跡五稜郭跡と合わせて、函館観光の要所でもあります。
そんな箱館奉行所について、丸山千明館長にお話を伺いました。
――箱館奉行所は、何の目的で建てられたのでしょうか?
丸山さん:第一には「蝦夷地の防備」です。ロシアの軍艦が南下してきたことで、北辺防備の拠点として、19世紀初頭、函館山の麓に最初の「箱館奉行所」が設けられました。
その後、日米和親条約で箱館が開港され、防衛上などの理由で内陸に西洋式の五稜郭を築造し、箱館奉行所は新築移転しました。当時、函館山の麓には外国の領事館が置かれ、その領事達と奉行所にいる幕府の箱館奉行は情報交換をしていました。だから、(奉行所は)今で言う外務省的な役割も担っていたんですね。
――この奉行所の存在によって、箱館が港町としてどんどん発展してったんですね。
丸山さん:当時は小さい港町でしたが、近現代を通じて国際的な街へと発展していきました。
――そんな奉行所、かなり雰囲気のある建物ですね。入ってすぐの大広間は圧巻でした!
丸山さん:この大広間はぜひ見ていただきたいポイントの一つです。手前から四之間、参之間、弐之間、壹之間。すべての襖を開け放つと、72畳の大広間になります。
奉行所の中でも特に格式高い部屋です。木材には当時も使われていた青森のヒバと秋田の杉を中心に使用し、できる限り忠実に復元しています。
――廊下部分もめちゃくちゃ雰囲気がありますね。ここに立つと幕末気分を味わえるかも。築造当時をうかがい知れて、現在まで残っているものは他にありますか?
丸山さん:兵糧庫です。五稜郭や奉行所が完成した当時から現在まで残っている唯一の建物です。
二度の解体復元工事を経て、建てられた当時の姿を取り戻しています。
あと、ぜひ見ていただきたいのが、このアカマツです。五稜郭内のアカマツは、五稜郭ができた時に新潟県の佐渡から種を取り寄せたものと言われています。当時、440本くらいを植えました。なお、アカマツは北海道には自生していません。
――五稜郭の歴史とともに育ってきた松なんですね!
丸山さん:そうです。その後の戦争をくぐり抜けて、85本が現存しています。いずれも樹齢150年以上ですね。
――木陰から武士がひょっこり顔を出しそうなほど、オーラが漂っています。五稜郭とセットで幕末の箱館ツアーができそうですね。ありがとうございました!
***
港町・函館の礎を築いた箱館奉行所。現在は、箱館戦争の舞台となった五稜郭とともに、幕末の風を感じられる、のどかな場所になっていました。
【スポット情報】
- 箱館奉行所
- 所在地
- 函館市五稜郭町44番3号
- 電話番号
- 0138-51-2864
- 開館時間
- 4月〜10月 9:00〜18:00(17:45 受付終了)
- 11月〜3月 9:00〜17:00(16:45 受付終了)
- 入館料
- 一般 500円(20人以上は400円)
- 学生・生徒・児童 250円(20人以上は200円)
- 未就学児 無料
- 休館日
- 年末年始ほか館内整理などで臨時休館する場合あり。臨時休館日は公式サイトをご確認ください。
- URL
行けばサブちゃんに“なれる”「北島三郎記念館」
いよいよ現代に近づいてきました。最後にやってきたのは、現代の函館が生んだ大スター・北島三郎さんの記念館です。
縄文時代から始まったタイムトラベルは、何故か「サブちゃん」に流れ着きました。というのも、サブちゃんこと北島三郎さんは、函館で学生時代を過ごし、地元では「函館の人」のイメージが強いのだとか。
そんな北島さんの函館時代や、施設の見所について、同館案内キャストの安藤妙子さんにお話を伺います!
――北島さんは函館でどのように過ごされていたのでしょうか?
安藤さん:北島さんが歌手になるきっかけは、高校2年生の時(1953年)に函館で開かれたNHKのど自慢大会への出場でした。優勝はできなかったのですが、司会者に「歌がうまいね」と褒められたことで、歌手になりたいと思ったそうです。
ちなみに、北島さんの歌の原点は、おじいさまが幼い頃の北島さんを背負いながら歌っていた民謡「江差追分」。村中が静まり返るくらい歌がお上手なおじいさんだったそうです。
――民話みたいなお話ですね……。高校時代の北島さんにまつわるエピソードは、他にありますか?
安藤さん:聞いた話では、結構ヤンチャをされていたようで(笑)。当時通っていた高校(現在の北海道函館西高校)は、函館一の進学校だったのですが、「西高の大野(穰、北島さんの本名)」として、喧嘩では有名だったようです。
――あら〜ヤンチャですね(笑)。
安藤さん:とはいえ、テレビを観ていただければ分かる通り、人情味があって、筋の通らないことを嫌う硬派な青年だったそうです。
館内には、高校時代の通学を再現したセットがあります。実際に汽車が発車する演出もあるんですよ。
セットの中には学ラン姿の北島さんもちゃんと乗っていて、お客様も座れるようになっています。
――高校時代の北島さんはエピソード満載ですね。通り名も漫画の主人公のようです。というか、「北島三郎」は芸名なんですね。
安藤さん:北島には「北海道からきた」という意味を込めて、三郎には「皆さまに親しみを持っていただきたい」という願いを込めて名付けたそうです。
とはいえ、北島さんご自身は7人兄弟の長男でして(笑)。芸名には一郎の案もあったそうなのですが、北島さんのお父様が一郎さんというお名前だったので「親父の名前はイヤだ」となったらしく。
――名前にそんな意味が込められていたとは……。北島さんは、故郷を背負って歌手になる決意をされたんですね。
安藤さん:実は家族には歌手になるのを大反対されているんです。「東京で一旗あげる」とご両親を説得してやっと上京されたようです。
北島さんの上京を再現した青函連絡船のセットが館内にあり、当館の見所の一つです。
当時、もちろん飛行機はなく、青函連絡船で青森まで行き、青森からは夜行列車の旅。「北海道を捨てるくらいの気持ちじゃないと、この船には乗れなかった」とはご本人もよくおっしゃっています。
――そんな、高校時代から上京まで函館にたくさんの思い出を残されてきた北島さんですが、故郷・函館を歌った曲はあるのですか?
安藤さん:一番有名なのは『函館の女(ひと)』(1965年)でしょうか。昭和40年代の函館の風景を歌った曲で、「灯りさざめく松風町(函館駅前の地名)」という歌詞から当時の活気が伝わってきます。北洋漁業が盛んで、船乗りの方が多かった当時の函館は、現在とは少し違った様子だったようです。
余談ですが、この歌はもともと『東京の女』というタイトルでした。
――なんと!!
安藤さん:曲の冒頭が「はるばる来たぜ函館」ですからね(笑)。ただ、作詞家の先生と話し合って「東京じゃしっくりこない」ということで、『函館の女』に変わったそうです。
――展示の最後には北島さんご本人(!?)が登場されるのですか? 何これ、すごい……。
安藤さん:当館の一番の見所、ロボットサブちゃんです。お客様からも「ご本人が出てきたかと思った」と言われます。
――似てるし、動くし、ギラギラしてるし……。これを見てビックリされる方は多いでしょうね。
安藤さん:皆さん一番盛り上がるのがこちらのステージですね。大ファンの方は、涙を流して喜ばれますよ。
当館はお客様一人一人に必ずガイドがつくのですが、ガイドのナビゲーションと、先ほどご紹介したセット、そしてこのロボットサブちゃんを体験して、皆さんお帰りになる頃には北島さんになりきっています(笑)。
――「帰る頃には北島三郎さんになれる施設」……めちゃくちゃパワーワードですね!?
安藤さん:先日いらっしゃった小学生の団体さんは、帰りがけに写真を撮るとき「サブちゃんポーズ」と言って、北島さんが歌う時のポーズをしていました。なっちゃうんでしょうね、ご本人に。
――北島さんの人生を追体験し、北島さん本人になりきれる。頭から体まで北島さんに染まれる、素晴らしいエンターテインメント空間ですね。ありがとうございました!
***
北島さんの愛されっぷりがひしひしと伝わってくる施設でした。再現セットなどで北島さんの思い出に入り込み、北島さんになり切れるというコンセプトは、本当に面白い。
みんなサブちゃんになろう!!
【スポット情報】
- 北島三郎記念館
- 所在地
- 函館市末広町22-11 ウイニングホテル・レストランウイニング 1F
- 電話番号
- 0138-26-3600
- 営業時間
- 9時00分〜17時30分(最終入場)
- 通常チケット料金
- 大人1540円
- 小人400円
- (特別割引料金などに関しては公式サイトをご確認ください)
- 休館日
- 火曜定休(祝日の場合は翌平日休業)
- URL
旅を終えて
縄文時代を出発したタイムトラベルは、北島三郎さんでフィニッシュしました。予想の斜め上をいく展開。でも楽しい……!
個性豊か、かつ歴史を感じられる4つのスポットを知り、函館という街がもっと好きになりました。
縄文時代から親が子を想う気持ちは変わらないし、かつてのお城跡には諸行無常を感じるし、復元された幕末の空気感には背筋が伸びるし、最後は北島三郎さんになっちゃうし……旅の中でいろいろな発見や驚きがありました。
皆さんも、函館の知られざる一面を探しに、足を運んでみてはいかがでしょうか。
※旅行やお出かけの際は、各自治体の情報発信に注意のうえ、安全、体調に十分配慮してください
現地撮影写真:原田啓介
書いた人:井口エリ
フリーライター。街歩きと神社とフィギュアを愛し、宝石鑑定士の資格を持つ。さまざまなWeb媒体で記事執筆中。
ブログ:
雑なにっき
Twitter:
井口エリ⛅(ちぷたそ) (@chip_potekko) | Twitter
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編集:はてな編集部